More Coming Soon~~
『居場所をくれてありがとう』 卒業生T.S君
僕は小学6年生の時この家に来ました。
初めて、ママさんを見たときは髪が紫ですごく派手だったのでびっくりしたし、怖いなと思いました。それと同時に初めてそういう人を見たからこの先大丈夫かなとすんごく不安でいっぱいでした、でもそんな不安も最初だけでした、ホームに来た当初はすごく華奢な体格でした、それに対してママさんはとても心配してくれました。そのまま中学にあがりました、学校までは少し距離がありきゃしゃだったのでママさんは通学などを心配してくれていました。最初は本当に教科書が多く通学がきつかったですしかし、次第に慣れて、きつく無くなりました。中学2年に上がったときは、1年のころよりも体力も付き楽しく過ごせました。中学3年になったことには、きゃしゃだった体もしっかりとした体つきになり身長も170㎝まで伸びました。無事中学も卒業でき高校も決まりました、行かせてもらいました。中学1年時では、初めて文化祭をしました。文化祭では書くクラス童話をテーマにおこない僕のクラスは、アリスインワンダーランドのテーマでおこないました。
2年時では、体育祭(クラスマッチ)をしました。種目は、バレーで男女に分かれ競いました。
惜しくも3年生に負け2位でしたがすんごく楽しかったです。良い思い出になりました。3年時ではコロナが流行してしまい、1.2年の時と比べほとんど何もできませんでしたが学校の先生方が最後の学校生活だからと言って密にはなれないのでオンライン文化祭を開きテーマは「繋がり」でおこないました。しかし進路が決まってなく心から楽しめていない人たちもいました、僕もその一人でした、文化祭準備を進路指導が同時進行に行われました。本番はオンラインで全員参加しました、僕たち3年生はゲームをプログラミングして作ったそうです。
1.2年のころと比べたらイベントは少なかったけれど3年間でこれだけの良い思い出がつくれました。進路も決まり、無事高校も卒業できました。
こんな思いでを作れたのも楽しく学校生活がおくれたのもこのホームに入れたからだと、思います。このホームに来れてうれしく思います!ママさん面倒見てくれて、居場所をくれてありがとう。
就職先でも頑張っていきます。一人前になれるように努力していきます。
『たまには「ただいま」と家に帰っておいで』 里母SK
まず初めに卒業生の皆さんご卒業おめでとうございます。
そしてT.S、卒業おめでとう。
3月6日土曜日「ただいまよりCK高等学校卒業式を始めます」と先生の開会の言葉から始まり「卒業式を終わります、思い出を忘れて帰らないでください」の言葉で終わった卒業式はやっと一人の子を卒業させたと感じた瞬間でした。
そんなT.Sが私とパパの元へ来たのは中学校入学前3月で最初の印象は「小柄で華奢な体格で大きく育つかな?」と、とても心配だったのでかかりつけの先生に一度見てもらったこと今でも覚えています。
先生から「まだ中学生だし後から大きくなる子はたくさん居るから」と言われたもののすごく心配でしたが今では重たいものを代わりに持ってくれたり、蛍光灯の交換などをしてくれるほど大きく頼もしくもなりとてもうれしく思っています。中学校へ入学した当初は特別学級でしたが少しずつ学校に慣れ2年生では通常学級へ行くことが多くなりどんどん成長していきました。
ですが3年生になるとT.Sに意地悪をする子も現れ感情のコントロールが苦手なT.Sはカーっとなり問題を起こすことが多々ありました。
一番大きな出来事は、同級生複数の子がT.Sのことを殴り自転車を壊したこと今でも覚えています。
そして中学校生活の中で最もT.Sが成長したと感じた瞬間でもありました。それは、いくら殴られても耐え自分から殴ることは無くT.S自身が「〇〇があった」と私たちに報告してきたことです。
私たちに言うことは凄く勇気が必要だったと思いますし、この子のために即行動に移さなくてはと思いました。
その後無事高校へ進学し、3学年合同遠足の時は勝手に帰ってよいと思い込み友達複数人で抜け出したような状態になり先生から電話、夏休みには髪の毛を染め学校へ登校、そして学校を辞めると言い呼び出された事や、また3年間一度も赤点を回避したことがなくテストのたびに四者面談となり、中学校生活時より大変になったことまだ記憶として新しいです。
そんなT.Sが3年生なりコロナ渦の中進路を考える時期になりました。
周りは徐々に進路が決まる中、進路が決まらない状態での年越しでしたが第一志望の会社へ決まりともに一安心しました。
今までは“責任”という言葉の重みを理解することが難しかったと思いますが、きっとこれから身に染みてわかると思うのではと思います(*^^*)。
そしてこの巣立ち式、私にとって第2の卒業式です。パパと迎えた最後の子です。
現在一緒に住んでいる子供の中で最も長い年月を共にした子でもあります。
私たちがT.Sに不安不満があり注意をしたようにT.Sにもきっと不安不満がたくさんあったと思いますが18歳までよく耐え本当に頑張ったと思います。
T.S、私たちのところへ来てくれて本当にありがとう、問題もたくさんあったけどT.Sがうちに来て私たちにできないところを補ってくれ本当に感謝しています。
たまには「ただいま」と家に帰っておいで。また一緒にご飯を食べようね。
いつでもT.Sの帰りを待っています。
『仕事を頑張りたいと思います』 卒業生Aちゃん
私がファミリーホームひまわりの家に来て9年5ヶ月くらい経ちました。
生まれてから乳児院に居て家族と住んだことがなかったんですけどパパやママにひきとってくれて最初は姉がいないとおもったらママやパパが「いるよ」って言われてとても嬉しかったです。
私を産んでくれたお父さんやお母さんや育ててくれた乳児院の先生や施設の先生やママパパが私を育ててくれたり、児相の先生や学校の先生達に私が色々なことを教えて頂いたり、友達とも話をさせたりしてくれて感謝の言葉を申し上げます。入学式・卒業式の時はパパやママが来てくれて泣いてくれたり、姉妹や兄弟達がお祝いしてくれたり、ママやパパに色々な料理を教えてもらたり一緒にご飯を食べたり、つくしんぼ会のときは子どもたちと遊んだり、先生と話したりしました。後は旅行では山口で海に入ったりしてくらげにさされたこともあったり、後は色々な所に行ったり、でも一番びっくりしたことは大阪に行って首を強くひねって病院に行ったときも自分は覚えてないんですけどママやパパがそばにいてくれて嬉しかったと思ったからです。
私はこの9年間注意を聞かなかったりして本当にごめんなさい。これからは注意されたことを直していきたいと思います。
そして本当に9年間ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。仕事を頑張りたいと思います。
『Aちゃんが結婚して幸せになるまで長生きしますから』
里母SK
Aちゃん、私と亡きパパのところへ来てくれて有難う。先日、高校の卒業式の時、急にフラッシュバックしたみたいに、思い出が脳裏に浮かんできました。今振り返ると、Aちゃんを育てるには勇気が要ったし、一言で言うと「大変」の二文字でした。Aちゃんは5人姉妹で、姉4人を引き取り住んでいました。Aちゃんの存在は知っていましたが、当時の私は障がい者であるAちゃんを育てていく自信はありませんでした。でも亡きパパが「姉妹を話してはダメだ。俺がお前を支えるから」と言ってくれたので、Aちゃんを引き取る決心ができました。今では私を支えるように成長してくれました。高校卒業式の時、Aちゃんが「今まで育ててくれて有難うございます。家は私の大切な場所だ。」って言ってくれましたね。私のほうこそ、Aちゃんと知り合ったことで、いろんなことを学ぶことができました。四月から就労先も決まり、次の一歩を歩んでいきます。これから新しい生活とともに、悩みや問題が出てくると思いますが、これからもともに乗り越えて行こう。ゆっくりと成長してゆけばいいんだからね。Aちゃんの明るさと素直さと優しさがあれば、大丈夫です。Aちゃんには頼りないママと、しっかり者のアッキーちゃんと、姉妹がいつもいてくれます。何かあったら、いつも家に帰っておいでね。Aちゃん、私は健常者とAちゃんが結婚して幸せになるまで長生きしますから。最後にご卒業、おめでとうございます。
『子どもたちから寂しさを取り除けるような保育士になりたい』
卒業生Oさん
私の将来の夢は保育士になることです。この夢は小学生の頃から変わりません。私には筋ジストロフィーという病気を患った兄と優秀な姉がいます。姉には夢があります。兄のような障がいを持った子どもたちの先生、つまり特別支援学校の教員になることです。私が知っている姉はいつも勉強ばっかりで兄のお世話をする時も手伝ってくれなかったので正直好きではありませんでした。けれど姉は私の知らないところで頑張っていたのです。教員になるために大学へ進学の夢に向かって頑張っていたのです。その大学が福岡教育大学でした。難関であるこの大学に姉は一生懸命勉強して合格しました。好きではなかった姉が私の尊敬する人、憧れの人になりました。そして、私も姉のように大学へ進学し、保育士の資格を取りたいという夢を抱くようになりました。そのためにはまず大学へ進学することが第一です。私は香蘭へ進学し、一生懸命頑張って資格を取り、多くの子どもたちに夢と希望を持たせられる保育士を目指そうと考えています。なぜ私が保育士を選んだのかといいますと、私の出身園が保育園で幼稚園の事を知らなかったのです。けれど成長していくにつれて幼稚園の存在を知り、違いを調べました。それでも私の夢は変わらず保育士でした。幼稚園教諭はだいたい朝の七時から夕方の三時くらいまでで延長保育五時までです。保育士は朝七時から深夜まで子どもをお預かりしています。私も幼い頃は夜遅くまで親の帰りを待っていました。待つことはとても不安になります。きっと子どもたちも寂しくて仕方がないと思います。私がそうだったように。私が保育士を選んだ理由は、延長保育で不安になってしまう子どもたちを安心させたいという思いとそういった子どもたちの寂しいという思いを少しでも和らげたいと思ったからです。そのために大学へ進学し、専門知識を学び、一人でも多くの子どもたちから寂しさを取り除けるような保育士になりたいと思います。こんな私に子どもたちを守れるのが子どもたちの助けになれるのかと悩んで、夢をあきらめようとした事もあります。けれど弱気な人を子どもたちが頼りにしてくれるはずがありません。弱気にならずに自分に自信を持って子どもたちに接していきたいと思います。私が保育園児の時に憧れた先生のように私も園児たちの憧れの先生になれるように努力を怠らず何事にも全力で取り組んでいこうと思います。私が保育園児の時、私は耳の中を切り出血をして怖くて泣いていました。そんな私をある先生が優しくなだめてくれました。その先生はよく笑い、悪い事は悪いと怒ってくれたり、良い事は良い事と褒めてくれる先生でした。そんな先生に私は憧れました。これも私が保育士になりたいと思った出来ことの一つです。
『恩返しができるような立派な大人になりたい』 卒業生Kさん
1年間という短い期間でしたが、沢山の思い出ができました。
家族揃っての食卓、旅行、お散歩等といった今まであまり経験できなかった事を沢山させてくれました。
ご飯はママさんが毎日栄養を考えて作ってくれました。その中で、鍋物が一番好きでした。今まで全く鍋物を食べた事がなく、実際あまり好きではなかったのですが、この家で食べてみて、とても美味しく食べれました。その理由はもちろん味付けや沢山の具材が一個一個美味しかったです。でも、一番美味しく感じさせたのは、皆そろって食べるので家族という温かさがあってより美味しく感じました。
私がこの家で初めて食べた夕飯はすき焼きでした。とても美味しかったのを覚えています。ママさんは自分で料理はあまり上手じゃないと言ってましたけど、私はママさんは料理上手とずっと思っていました。毎日美味しいご飯を作ってくれてありがとうございました。
旅行は大阪と大分に行きました。どちらも行った事がなく、本当にとても楽しかったです。ママさんに、「Kは自己中心的なとこがある」と言われました。自分でも実際自覚があるので、ママさんから言われた事を忘れずに、これからは常に思いやりを持って、人と接したいと思います。
そして、今までお世話になった人たちに恩返しができるような立派な大人になりたいです。この家で生活ができて本当に良かったなと思っています。今まで本当にありがとうございました。今の自分が居るのは、今まで支えてくれた人たちのおかげです。
『なにかあったときはいつでも家に帰ってきてください』
里母SK
二人とも良い娘です。子どもたちが私を支えてくれたおかげで今の私がいるとおもっていいます。逆に私が感謝しています。「本当にありがとうございました」。これから巣立っていく訳ですが、なにかあったときはいつでも家に帰ってきてください。待ってます。
『じぃじぃ』 里父SK
車を降りると、急いでマンションの3階まで駆け上がりチャイムを鳴らす。
「ガチャ」っと解錠の音を聞くと、すぐに扉を開け玄関に入る。
いつものとおりMが迎えてくれる私は挨拶もそこそこに部屋の奥に視線をやる。
そこにはやはりいつものようにYがいる。
「Yちゃん、Yちゃん」。
Yは満面の笑顔と体中で喜びを表しながら、私の居るほうへ這いよってくる。
私がMと会ったのはMが小学校4年生のときだった。その年、里親登録をしたばかりの私たちは、MとSの姉妹をお盆里親で預かった。
可愛くて可愛くて毎週末お泊りをさせるようになった、キャンプや旅行に行って沢山の思い出ももらった。
委託してもらえるよう何度も児相にお願いしたが、母親の同意が取れないと断り続けられ交流は2年間続いた。
やっと委託が可能になった時児相から条件が付けられた。
M達は4人姉妹なので受託するなら4人一緒にお願いします、とのことだった。
一瞬躊躇したが、2人も4人も同じことだと預かった。
一挙に小学校6年、4年、3年、2年の4姉妹の親となった。
確かに大変だったが、里親にならなかったら味わえなかった沢山の思い出、
中学、高校そして措置解除、成長とともに親の手から離れていく寂しさ。
Mもそうでした、彼女は短大進学のため措置解除後も我が家から通学し、
卒業後も我が家から通勤していたので、早く自立して欲しい反面
このままずっと居て欲しい気持ちもありました。
しかし、就職して1年ついに巣立っていくときが来ました、
自分でマンションを見つけて自活を始めたのです。その時初めて、
こうやって1人ひとり巣立っていくんだなぁと、
寂しい現実を思い知らされました。
その後Mは結婚をし、1児の母親になりました。
出産前後の数ヶ月は我が家を実家として戻ってきました。
小さな小さな命を私に抱かせてくれます、初孫が出来たのです。
赤ちゃんは日に日に目に見えて成長していきます、
そして家中を明るくしてくれます。けれど、
またM達は自分たちの住まいに帰っていきました、
でも私は今度は寂しくありません。
Mの家の玄関から、這いよってくるYのところに急いでいってこう言うのです
「Yちゃんじぃじぃが来たぞ」。
私は生後8ヶ月のその小さな体を抱きあげながら
「高い高い高い、じぃじぃだぞ」しっかり抱きかかえ頬ずりをし
「じぃじぃだぞ」至福の時、もうメロメロです。
もし里親をしていなかったら、絶対味わえなかった本当に幸せな時間です。
『巣立ちの日に~Mと出会い、私達、親の世界も広がった~』
里親Yさん(母)
Mとの出会いは、平成七年の春乳児院を訪問した時、
ベビーベッドの中から、じっと私達を見つめている子がいて、
足を止めました。この時の事を忘れる事が出来ません。
幼稚園、小学校、中学、高校と、Mを通し、
私達、親の世界も広がった様に思います。
たくさんの方々との出会いや、色々な経験をさせていただきました。
Mと出会えなかったら、こんなに楽しい人生は、なかったでしょう。
今Mに感謝しています。
苦しい時、悲しい時、Mと共にのり越えてきました。
センターの先生方にも、助けて頂きました。
勉強では算数が苦手で、泣いておりましたが、
高校最後の通知表で数学”5”を見た時、
頑張ってきたのだと、感心しました。
Mは、思いやりのある、やさしい子に育ちました。
私共からみても、うらやましいくらいのたくさんの友達が居て、
誕生日などは、抱えきれないくらいたくさんのプレゼントを、
持ち帰ります。
これからも、まわりの人を、大切にして、
幸せな人生を歩んでほしいと、心より願っております。
たくさんの思い出を、ありがとう。
また、これから、大学生活、楽しいものにしていきましょう。